行く先々で「よいお年を」と声が聞こえ、早い店はすでにシャッターを下ろして謹賀新年と書かれた紙を貼っていた。
ナギリは冷えた空気を飲み込みながら、騒がしい商店街の裏路地を抜けると、夕闇に染まる川沿いの道を足早に進んだ。喧騒を抜けて勝手知ったる場所に出ると、少しだけ安心する。乾燥して冷えた空気は、飲み込むと内臓を氷のように冷やした。こんな日は手っ取り早くひとを斬って、熱い血であたたまりたかった――そんなささやかな吸血鬼らしい願いを抱こうも、ここ何年かまともにひとを斬っていない。あれほど世間を震撼させた辻斬りナギリの名は、もうどこからも聞こえなかった。
あの男の口から以外は。
開かれた大きな口の底は、さぞこの冷たい空気を吸っても冷やすことのない熱を持っているだろう。熱い声は冷えた空気を破壊し、水面すらも震わせそうな大きな声は、つねに辻斬りナギリを求めていた。かれが求めるばけもののような辻斬りは、何年くらい息をひそめているのだろうか。
何年、と云ってもそもそもナギリに日付や年月の感覚はない。それはかれが時間に制約される生き方をして来なかったからだ。第一にナギリは吸血鬼になってから時計も、携帯電話も持ったことはない。気になるのは暑いか、寒いか、夜か昼か、雨は降っていないか――それくらいだ。正確な時間や季節はいつも判らない。だから、目が覚めて今日は何月何日かなんて、知りようがなかった。ヘルプでなくレギュラーになって欲しいと望む神在月にも、カレンダーすら持っていない自分は対応しきれなかった。
けれど。
あの騒音のような男と出会ってしまってから、ナギリの生活には時間という概念がいつの間にか顔を出していた。
あと十四回夜が来ればカンタロウの誕生日なのだと知ってしまった日から、起きるたびに数をかぞえるようになっていた。
七回目の夜が過ぎると街の装飾があっという間にクリスマスから年末と正月に塗り替えられ、けばけばしいツリーと目に痛い真っ赤な衣装のサンタクロースは消え去った。代わりに門松やしめ縄が飾られ、年始に向かう空気になっていた。クリスマスも暮れも正月も無関係だったナギリのもとに、いつだったかカンタロウは出来立ての雑煮を鍋いっぱいに持ってきた。あの日は年が明けたばかり――つまりは元旦で、新年を祝うためにカンタロウはやってきたのだ。元旦の前日は当然十二月三十一日で、あの馬鹿は自分の誕生日に大鍋で雑煮をこしらえていたことになる。
しかも、ナギリのために。
おかげで誕生日とは何をどうするものなのかが、ナギリは今一つ理解できない。神在月が「生まれてきたことを祝って、自分がしたいことをする日だ」と云っていたが、それがカンタロウに当てはまるとも思えなかった。
あの男の誕生日当日になって、自分は何がしたいのかまるで判らなかった。
ナギリは歩く足を止め、土手に腰を下ろした。冷えた土くれが尻を冷やす。あたりはもう真っ暗だった。川の向こうに見えるVRCの明かり。あそこには、もう二度と入りたくない。次いでふたり並んでこの土手に座った日を思い出し、かぶりを振って誤魔化す。カンタロウのことを考えたくなくて、何とか違うことを考えた。
丸。
丸は元気なんだろうか。泣いていないだろうか。この寒さで震えていないだろうか。だけど、かれがどこに居るか判らない。どうやってハンターどもから救いに行けるのかも判らない。分霊体も失い、弱くなった自分に何が出来るのか。
何をしているんだ。
自分を隠して偽名を名乗り、不死のちからも失い、何をしたいんだ。
あの自分を襲ったばけもののように、己もカンタロウの夢を奪ったと知って、会わせる顔がなくて避け続けても、かれは諦めずやってきた。やってきて、自分を慕った。
それが――嬉しかった。
そんな男の誕生日を知った自分は、どうするべきなのか。
結局カンタロウに戻ってきてしまった思考に、ため息をつく。
「おっさん、何やってんの?」
不意に背後から声を掛けられ、驚きを誤魔化しつつ視線をやると、そこにはあの三人組小学生のひとりが自転車を止めて立っていた。
「――ひとりなのか?」
新ちゃん、と呼ばれていた少年がそこに居る。ほかの二人は不在のようだった。かれらはナギリを退治人だと思っていて、それが少しくすぐったかった。
「年末だもん、みんな家だよ。俺はかーちゃんに頼まれて、買い忘れのお節に入れるクソ高いかまぼこ買ってきた」
云って籠に入ったスーパーの袋を持ち上げる。ビニール越しにピンク色のかまぼこが透けて見えていた。
「……そうか」
そう云われても、お節に何が入って何が入らないかは知らない。あの写真で見る料理を頭に浮かべるが、黒塗りの器に入っているものは、過半数が知らぬものだ。ナギリは適当に相槌を打ってやり過ごす。
「おっさんも買い物?」
だしぬけに少年が聞いてきて、思わずぎょっとしてしまう。
「なんでだ?」
「なんでって、さっき商店街で見かけたから。文具屋のあたりをうろうろしてたじゃん」
見られていたのだ。フードに隠れた耳が熱くなるのを感じる。
「ち、違う」
咄嗟に否定するが、間違ってはいなかった。確かに買い物には来た。店は開いていなかったが。ナギリは年末のどの日にどの店が休業するかを、まったく把握していなかったのだ。少年は否定をそのまま受け取ったようで、うなずきながら自転車にまたがった。
「あ、ねえ。ホンカンは一緒じゃないの?」
突然出された名にナギリは眉間にしわを寄せた。
「なんであいつの名前が出るんだ?」
掠れた声でそう返すと、だっていつも一緒にいるじゃん、と笑って返してきた。
「ホンカンは年末年始休めないの?」
「知らん」
口にしてみて、本当に知らないと気づいた。
「おっさんは武者修行してるから、正月は家に帰らないの?」
云われた言葉が判らない。
帰る?
どこに帰ると云うんだ。帰る家なんて、あの廃墟以外ない。
「……そうだ」
こわばった表情のまま返すと、気にした様子もなく少年は自転車を漕ぎ去っていく。
「ふーん、そっか。がんばってね!」
ばいばーいと手を振りながら、自転車が小さくなって行った。
少年が見えなくなるとナギリもゆっくりと腰を上げた。帰る場所など、ひとつしかないけれど。
本当は。
本当はリボンでもあったほうがいいんじゃないかと思った。何かきれいな紙で包んでやった方がいんじゃないかと思った。だから、思い立って来たくもない商店街まで買いに出たのだ。なけなしの金を握りしめ、売ってそうな場所にやって来た。目論見外れ、そこは閉まっていたけれど。
帰途、吸対の一団と退治人たちが走って行くのが見えた。その中でひときわ目立つ赤い衣装は、数日遅れのサンタクロースにも思えた。目の端に退治人の赤い残像がのこり、まるで幼い時分に願った夢の残りかすのようだった。道を間違えなければ、ナギリも一緒にあの中を走っていたのかもしれない。そんな馬鹿げた夢想を、鼻で笑って切り捨てた。
すれ違う誰かが吸血ミノムシが羽化して巨大化したらしいよ、と噂をしている。いいや、吸血アブラムシが大量発生したんだって――。乾季のせいなのか、途切れぬ大発生にきっとカンタロウは、誕生日でも走り回っている。それでもあの男は抜け出して、自分のもとに来ることを、あたりまえのように前提として考えていた。
必ず来る保障なんて、どこにもないのに。
そんな約束は――していないのに。
そのまま追い掛けるべきかと、視界から消えゆく白い制服を追った。いいや、あそこには嗅覚の鋭いダンピールが居る。今、バレるわけにはいかない。何より呼んでもいないのに、いつも好き勝手にやって来る男を追うなんて、ナギリのプライドが許さなかった。
ナギリは冷え切ったねぐらに戻ると、ベッドマットの下に隠したカードを取り出した。買ったとき入れられた紙袋はすでに汚れ、端は曲がっている。
どうしてこれを、あのとき買ったのか。
バレたくないのに、もっと近しくなりたい。
反発しあうふたつの感情とプライドが、ぐちゃぐちゃになってどうかなりそうだった。意識はいつの間にかあの男に、浸食されていたのだ。消えろと願ったはずなのに、消えて欲しくないと願う自分もここに居る。血の刃がカンタロウの腹を抉ったように、かれの何かがナギリの一部を抉った。抉った先にあるのは、何だ。そこからしたたり落ちるのは、何なんだ。
ナギリは手にしていたカードの入った袋を床に落とし、遠くへ蹴った。
過去はあたたかな絨毯や壁紙があったであろう壁も床も、コンクリがむき出しになって、すべてが冷え切っている。あたたかいものはここには何もない。そんなここが、ナギリにとって唯一帰る場所だ。それでも、ここにはもうひとり男がやってくる。熱の塊で、すべてを溶かす、うるさいくらいの男が。かれがこんな真冬に生まれたのは、きっとこの寒さをめちゃくちゃにするためだ。
もう二度と、無敵だった自分には戻れない。
知ってしまった感情。知ってしまったときの流れ。今日からあと三百六十五回夜を迎えれば、またカンタロウが生まれた日がやってくる。このまま夜を数え続けてしまいそうだった。
どうしたら、素直にカンタロウの誕生日を祝えるんだろう。
「俺は何をしているんだ」
口に出した声が、冷えた空気に溶けていった。