高いビルの谷間には強い風が吹く。表通りから吹き込んできて、裏路地に転がっている煙草の吸い殻やどこからかやってきた枯葉を吹き上げ攫っていく風にナギリは瞼を閉じ、耳をもいでいきそうな勢いに身震いした。吸血鬼にとっても冬の風は鋭い。粘膜や肌に刺さり末端の動きを鈍らせる。かじかんだ指を握り込んだところで温まるわけでもなく、ナギリは苛立たしげに何度か手を握って開いたのち、ぎこちない動きで先ほどの風で脱げたフードを被り直した。時間は夕方だが、街は夜の暗さに包まれている。獲物か丸の痕跡か、どちらかを見つけられればと思ってねぐらから出てきたが、収穫はなさそうだった。街のあちこちには特別警戒ののぼりが立っていて、夜目に目立つ白い制服の吸対が歩き回っては吸血鬼に注意を向けている。帰路につく子供達がふざける声に舌打ちをし、生ぬるい埃臭い風を吐き出し続ける室外機の上に腰掛けた。空を見上げてふうっと吐き出す息はかろうじて白い。
今年も嫌な時期が始まった。この、クリスマス直前から年が明けるまでの時期がとにかく嫌いだった。襲ったところで不味いだけの酔っ払いが大挙してやかましく出歩くし、あちこち深夜まで営業していて無駄に明るい。そして何より腹が立つことに、冬の人間は温かい。マフラーにコートにセーターに、着膨れるほど着込んだ人間の防寒具を切り裂いて触れる肌から立ち上る温かさときたら! そして自分の血との温度を思い知らされる瞬間の屈辱!
冷血という化け物に相応しい言葉とは違う、屋根の外で芯まで冷え切っただけの自分の血が刃となって温かい人間に突き刺さり、防寒具に守られ外気の下では湯気の立ち上りそうなほど温かい血を吸い上げて体を巡る瞬間の快感、と同時に味わう惨めさが嫌いだった。こいつはこんな目に遭っても明日は暖かい部屋の中。同情と労り、暖かい食事、湯気の立つ風呂、新しい清潔な着替え。この後、お前にはそれが与えられるんだから今俺に奪われるぐらい些細なことだろう。そう思いながら刃を振るうのはあまり愉快なことではない。
だからこの時期は嫌いだった。
またどうっと音を立てて背の高いビルの間を風が吹き抜けていく。脇を締め、マントの前をかき合わせて風をやり過ごし、ねぐらに置いてきたカードを思い出して深くため息をついた。金属の装甲で素顔を覆い、隙のない武装をした正義の味方の描かれたカード。何度も捨てて忘れてしまおうと思い、捨てきれずにいるカードだ。
ヒーローとかいう……きっと瑕疵のない人生を送り、後悔は次に活かされ、敗北は再起の始まりで終わりではなく、取り返しのつかない失意のうちに死ぬことはないだろう存在の描かれたカード。警察官のあいつが好きなヒーロー。温泉で歌わせられた主題歌の歌詞が現れる画面でそいつは変身するなり悪に飛びかかって倒し、終わりにはポーズを決めていた。その画面を眺めながら俺に襲いかかってきた退治人どもが夢見ていただろう展開だ。そう思って口の端が歪んだのをあいつは俺が楽しがっていると思って嬉しがった。それが忘れられなかった。俺が楽しいとお前が嬉しいと笑うこと。俺の振る舞いがお前の感情を動かすこと。俺がお前に喜びを与えられること。丸を救いに駆け付けて待っていたと喜ばれたい気持ちと酷似した、俺が誰かに何かを与えてやれるという優越。知らないところで捨ててしまえばいいものを、辻田に好きなものを覚えられているということにお前がどれだけ喜ぶだろうだとかそんな気持ちに惑わされて、手にしたまましまいこんだままでいるカード。
誕生日にもクリスマスにもカードなど貰ったことがなかったから、どんな事を書いたらいいかもわからないというのに。
カードに描かれていた時空超越の字を思い出し、また深くため息をつく。時空超越か。いっそクリスマスも年末年始も一息に飛び越えられないかとぼんやり考えつつ、現実逃避でさらに遠くの時間へと思いを馳せる。百年経ったらあいつは、そしてあいつの好きなヒーローとやらはどのように語られるのか。歴史の中に埋もれていくすべてのことを考えればまた自然と深い息が漏れた。俺は、俺の名前は、俺の働いた悪事は百年の年月に耐えられるだろうか。
ぼんやりしているうちに夜は更に深まり、どこかでパトカーのサイレンが鳴り出す。今夜はもう諦めてねぐらに戻った方が良さそうだ。渋々立ち上がって歩き出した背中をまた強い風が押してよろめいた。
明日はクリスマスイブだけあって、街は浮かれた喧騒に満ちている。何をそんなに浮かれるのか……そもそもクリスマスというのは神の子供が人間として生まれたことを祝う祭りだという。正しくは、神の子供が人間の罪を償うために人の姿でこの世に現れたことを祝う祭り。そいつは生まれた時にはまだ何もしていなかったというのに、神の子供として生まれたというだけで祝われたそいつは人間に殺された。だが、人間はそれを忘れ、いまだにその日を祝っている。それがこの日だと俺は何故か知っている。いつからか知っていた、知らないはずのことのひとつ。クリスマスの由来なんて俺は知らなかった。どこで学んだかわからないからどこで学び直せばいいかわからない、そんな知識。
同じような知識に、神とは全知全能だという知識がある。それを知っていることを自覚した時に不思議だと思った。神が全知全能だというなら俺みたいな奴の気持ちもわかるということだろうか。それは神は全知全能でありながらも過ちを犯せるということではないだろうか。
俺がもし、人間のままだったならきっと神の全知全能を疑っていただろう。だが、何故だかわからないが俺は知っている。真に神は全知全能であると。疑いようもないほどにその知識は俺の心に根付いている。おそらく、神への信仰心とやらと表裏一体で俺に染み付いている。拭い去れない、俺の内側から湧き出てくる知らないはずの知識と共に。習っていない漢字を容易く読めてしまうのと同じように、知らなかった頃には戻れない強さでその感情は、知識は俺に根付いている。立ち入り禁止、という文字が目に入れば意味と読みとを認識してしまうのと同じ当たり前さで、神とやらのことを思えば、そいつは全知全能で俺には届かぬ存在であると、畏怖のような感情が湧き上がる。そいつは何もかもを見ているから、きっと俺はそいつにいつか罰せられる。十字架へのうっすらとした恐怖と共にある、どこから湧いて出たかわからない確信。
神など信じたくもないのに。
暗闇越しに見る街はイルミネーションできらめいている。青と白。黄金と赤。点滅するカラフルな電飾。それぞれに輝く飾り付け。白いファーのついたブーツやその時々の流行りのキャラクターがついたブーツに菓子が詰められてスーパーの店頭に並ぶ季節。俺の、俺自身の知識としてのクリスマスは、思い出したくない記憶と共にある。クリスマス当日、諍う家族にクリスマスなんだから怒るのをやめてよと笑いかけた時に、うるさいと八つ当たりで掴まれて投げられたブーツが壁に当たって落ちる軽い空っぽの音。クリスマスなんだからとそう言えば、ちょうど今日のようなクリスマス直前の浮かれた空気の中、もうすぐクリスマスだものねと笑ってブーツを買う事を許してくれた時の微笑みが蘇るんじゃないかと期待して掛けた声だった。
優しさを期待して蹴られるのはむなしくて痛い。愛されていたかった。何があっても俺だけは愛していて欲しかった。子供らしい俺の言葉にはっと我に返って、クリスマスなのにごめんねと謝って抱きしめて欲しかった。テレビの中ではそうだったから。母親が眠っている休みの日の朝どうしても観たくて、テレビに毛布をかけ、電源を入れるなり音を消してこっそり観たテレビ。ずっと、テレビで観るアニメの子供みたいになりたかった。あんなふうに振る舞えばうちもテレビの中の家みたいになるんじゃないかと期待していた。
世の中が浮かれれば浮かれるほど、そんな事ばかり頭を巡る。寒さが今更ながら体を巡って、俺は大きく身震いした。
俺はもうそんな思い出とは無縁だと記憶を心の中で改めて踏み潰し、ねぐらに向かう足を早める。何度もビルの間を吹き抜けていく風に押され、背中を丸めるのが癪で胸を張った。路地裏は表通りと並行してずっと続いていて、室外機が吐き出す生ぬるい空気をビル風が吹き払っていくせいで寒い。ゴミの転がった地面から見上げる窓は明るく喧騒に満ちていて、ビルとビルの隙間から垣間見える表通りは常に輝いている。
表通りを脅かせる俺でいたかった。ずっと。
いよいよクリスマス! と明日に向けた期待を膨らませているような表通りに唇を噛む。
俺が丸を見つけるのが分霊体を失うより早ければ! 分霊体を失った後の俺ときたら、身体中に縄をかけられたように不自由だ。力を取り戻しさえすれば丸の元へすぐに駆けつけ、圧倒的な力で丸を助け出してやれるのに。クリスマスだ、丸! とプレゼントとして自由を与えられる俺になりたいのに、丸とクリスマスを過ごしたいのに、きっとそれは叶わない。ぎゅっと手を握り、手のひらに爪が食い込む痛みを感じながらクソ、と毒づく。丸さえ手に入れられればこんな街に居続ける必要もなくなるというのに。
俺が、世の中に恐怖をもたらしたことで辻斬りの名前を手に入れられたように、丸を助けてやれば丸に自由をもたらしてやれば俺は丸を手に入れられるはずで。俺の労苦に報いとして丸が感謝を述べ、俺を選ぶ。その瞬間のためだけに俺はこの狂った街に、俺を付け狙うカンタロウのいる街に留まっている。丸が俺に手を差し伸べる瞬間。思い描けばそれだけで口元が綻ぶ。俺は丸のためならいくら身を削ってもいい。解放された丸が喜ぶ顔が見られるなら俺はいくらだって苦労できる。
ポケットに手を突っ込み、去年、丸がくれた手袋に触れ……俺は丸に何も与えられていないという事実に心が暗く濁る。今のままでは丸の囚われている退治人の事務所にはとても殴り込めないから仕方ないとはいえ、丸には何も渡せない一方であのカンタロウに誕生日カードなんて。俺は本当にどうかしてしまったんじゃないか。
ねぐらへと急いでいた足を止め、やっぱり一人ぐらいカッ斬れないか、と思い直す。丸を思う気持ちが背中を押した。力さえ取り戻せば何とでもなる。口を引き結び、表通りににじり寄ったが、退治人ギルドと吸対が連名で出している特別警戒中ののぼりに足が止まった。酔っ払った退治人に手酷くやられた記憶が苦々しく脳裏をよぎる。たたらを踏む耳へと、明日楽しみだねえ、ねえ、明日どこで待ち合わせる? そんな明日を待ち焦がれる喜色に満ちたさざめきが漏れ聞こえ、表通りを恨みがましく睨んだ。吸対に退治人どもめ。あいつらさえいなければ一人か二人ぐらいは路地裏に引き摺り込んでカッ斬れたものを。幸せそうに歩く奴らは俺の視線にも気付かない。紙袋を下げた女。顔を寄せて話しながら歩いていく二人組。子供の手を引く母親。それぞれに家路を急いでいて、自分の幸福の外にいる人間には目もくれない。
母親に手を引かれて歩く子供は路面に敷き詰められたレンガ状のタイルの、色がついている部分だけを選んで歩こうと足元を見下ろし、あっちへこっちへと飛び跳ねている。子供の丸々とした頬も、あっちのタイルを踏む、と子供に引っ張られて笑う母親の頬も寒さで赤らんでいた。幸福な光景だ。悪役の皮肉としてそんな感想を抱いた。子供が唇を尖らせ、色付きの石へと飛び移りつつ質問をする声が耳につく。
「あのさあ、サンタさんのさあ、手紙に書いたのと違うのがさあ、欲しくなったらどうしたらいいの?」
「えー? なあに、違うものが欲しくなったの?」
「違うの! どうなるのか聞いただけじゃん!」
母親のまろい声に、理不尽な癇癪がぶつかる。
「もう! お母さんが変なこと聞くからあ! どこまで数えてたかわかんなくなっちゃったじゃん!」
飛び移る石畳を数えていたのにとしゃがんで金切り声を上げる無邪気から目を逸らせず、俺は路地裏に釘付けにされたように立ち止まったまま二人のやりとりを見ていた。やわらかなベージュ色のコートの母親の困った顔に気付かず、小学校の……何年生だろうか。俺に絡んでくる三人組のガキどもと同じぐらいに見える子供はしゃがんだまま器用に地団駄を踏み、声を張り上げる。
「おかあさんはいっつもそうじゃん! クリスマスのケーキだって誕生日のと一緒にしちゃうし!」
甲高い声。俺には許されなかったわがまま。立ち去らなくてはならないとわかっているのに、俺はその場から動けずにいた。子供のわがままがどうなるか見たかった。母親がどう振る舞うのか。俺は唇を舐めた。母親の激怒を俺は期待していた。視界の隅、白いコートが翻るまでは。
「おや! クリスマス生まれでありますか?」
カンタロウだった。どうして気付かなかったのか。俺は咄嗟にフードに手をやり、目元まで引き下げて後ずさる。目立たぬよう路地裏の冷たいビルの壁に背中をぴたりと当てた俺の動きに、幸いにしてカンタロウは気付かなかったようだった。カンタロウから目を離さないまま息を殺し、抜き足差し足のカニ歩きでそっと路地裏の奥へと退がる。カンタロウは子供に目線を合わせるためにしゃがみ、子供に向かって笑いかけた。
「ふふ。本官も十二月三十一日生まれなのでありますよ」
白いコートの裾が地面に擦れる。カンタロウは何か子供に向かって話しかけていたが、路地裏の奥にすっかり引っ込んだ俺のところにその声は届かなかった。いつもは馬鹿みたいにうるさいくせに。ただ、子供に突っかかられ、笑っている顔だけが見えた。傷のある顔でも、笑えば優しく見える。それがどうしてか、無性に腹立たしかった。そいつはプレゼントだってもらえて、ケーキだって食えるのに。辻斬りナギリが今もどこかに潜んでいるのに。どうしてそんな顔をするんだ。そう刃を突きつけてやりたかった。
カンタロウが子供の頭を撫で、子供は下を向く。マフラーに顎を埋める子供に対しカンタロウは膝をつき、子供の顔を覗き込むようにしてなおも話しかけている。頭を下げて子供の腕を引き、子供を立たせようとする母親に、それには及ばないと手を振る様子は、俺といる時の様子が嘘のようにおおらかだった。子供に向かって首を傾げるカンタロウの、白いコートの襟元は寒々しく、太い首が丸見えだった。ぼんやりと、赤いマフラーでも渡してやったら喜びそうだと思う。辻斬りを宿敵と定めたあいつを、物語の中のヒーローのようだと考えるのは癪だった。だが、マフラーを両手に抱いて飛び上がって喜ぶあいつの顔は簡単に想像できてしまって、苛立ちが募る。
そいつが貰えるものは当たり前じゃないと、俺の存在でもって突きつけてやりたい。奥歯を噛みながら、気持ちを落ち着けるために丸から受け取った手袋に触れる。
丸からの手袋を見つけた時、丸が俺を思っている事が嬉しかった。丸の心の支えになれているんだ俺は。そんな自負から、手袋を胸元に抱いて俺が守るからなと誓いを新たにした。母親からブーツを買い与えられた時は、俺は母親の子供なんだと実感出来て嬉しかった。俺が寒くないか心配してのプレゼント。俺を喜ばせるためのプレゼント。だからこそ嬉しかったのだ。
あの子供にカンタロウは何を話しているのだろうか。ぼんやり考えていると、カンタロウが子供の肩を叩き、空を指差す。つられて見上げると、雪が降り始めたところだった。はあ、と吐いた息が白い。
視線を大通りに戻せば子供は立ち上がり、カンタロウに手を振っていた。母親と共に去っていく子供に手を振り返すカンタロウのそばに、ダンピールの同僚が歩み寄ってくる。ぎくりとして更に後ずさったが、距離のおかげか二人ともこちらには目もくれなかった。二人して子供の方を眺めながらなにごとか言葉を交わして笑い合い、肩を並べて去っていく。ほっと息をつきながら、俺は下を向いた。ひらひらと落ちてきた雪が、うつむいた俺の視界で髪に引っかかる。
あいつは、カンタロウはきっとクリスマスにも、誕生日当日にも、辻田を探すだろう。騒がしい日だから辻斬りを探すために、そんな理由をつけて俺を探すだろう。年が明けたら職場でやいやい言われながら誕生日祝いだと飯でも奢られたりするんだろう。
あいつには……同僚がいて、居場所がある。あいつは孤高のヒーローじゃない。俺以外からいくらでもいいものをもらえるだろう。誕生祝いにカードだけ寄越すやつなんて、それだけしか持っていないやつなんてきっといない。
だが、あいつは辻田からカードを貰えば天に誇るように頭上に掲げ、飛び上がって喜び、どれだけ大事にするか力説する。それが簡単に思い浮かんでしまう事に、何故だが涙が出そうになって俺は俯いたまま笑った。肩を震わせて、どうしたらいいかわからずに笑っていた。
俺は辻斬りナギリだというのに。辻田だなんて。馬鹿馬鹿しいにも程がある。
だというのに死ぬのが怖くて、あいつの目の前でカードを握りつぶして俺が辻斬りナギリだと明かした時のことが怖くて、結局辻田として俺はカードを渡そうとしている。
お前の誕生日に何を祝うというのか。これからクリスマスを祝う奴らのようになんとなくイベントだからだとは祝えない。お前が生まれたというだけのことを……辻田として祝うだなんて。
「クソが」
呟きは暗闇に溶けていく。雪は壁に張り付いて俯いたままの俺の髪に幾つも引っかかり、俺の吐く息に溶かされて消えていく。雪の白さは罪をも洗うらしい。学んだこともない、罪を雪ぐという言葉は知識として俺の頭にあるだけで、俺はその意味を本当には知らない。
ねぐらに向かって再び歩み出す時、遠くからまたパトカーのサイレンが聞こえた。顔を上げ、つんと粘膜を刺す冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。声を出して何かを話したかったが、丸もカンタロウもいなかったから、ただ、空に向かって狼煙のように息を吐いた。
ただ生まれただけで祝われた存在が既に殺されているにも関わらず、祝い続ける世界に向けて。