フォントサイズ:





 今年も十日あまりを残した夜のことである。
 ナギリはいつものように裏路地を歩いていた。目深にフードを被っていてもこの季節ならば北風を言い訳にできるはずだが、それでも人目を避けてしまうのはすっかり身体に染み付いた習慣だ。遊ぶ場所の当ても金もなくねぐらへ帰るためだけの道行だったが、表通りからこぼれてくるひかりに惹かれてふとナギリは足を止めた。

 ナギリの目に留まったのは、ひらひらとした水色のドレスを着た幼い子供と若い母親のふたり連れだった。子供の方はご丁寧に、キラキラした紙の切り抜きでできた「HAPPY BIRTHDAY」の頭飾りをつけて、ハート型の風船まで持っている。年の瀬の浮かれた街にふさわしい、どこからどう見ても幸せそうなふたりだ。
 その幸せは、少しくらいナギリへ分け与えられてもよいはずのものではないのだろうか?
 まずは子供を人質に取って、血が多い親の方からたっぷり吸い上げる。街はにぎわっていてすぐにでも吸対が駆けつけるだろうが、それでも手早くやれば逃亡に十分なくらいは――年明けまでくちた腹で過ごせるはずだ。人間の暖かい血で。
 そういったことをあたかも白昼夢のように思い描いていたナギリだったが、けたたましい泣き声によって現実へと引き戻されてしまった。ふたり連れに目を戻せば、子供の方が街路樹を指しながら親に何事か必死に語りかけている。ナギリはその手から風船が失われていることに気付いた。手を離してしまったのだろうか? 子供はもちろん母親も背が高い方とは言えないので、そのうち諦めて帰ることになるのだろう。ナギリの身の丈ならば手を伸ばせば届きそうだったが、そんなことはしない。してやらない。
 いい気味だと思ったから。
 そこへ。

「何かお困りでありますか!」
 なじみたくもないのに、すっかり耳が覚えてしまった声だった。パトロール中だろうか、真っ白な隊服に身を包んだ姿はまるで子供向けの漫画のヒーローのようだ。実際、地面に膝をついて泣いている子供に話しかけるカンタロウはまさしくヒーローだった。まっすぐな瞳が頼もしくて、いかにも立派な吸対職員さんという風情だ。普段カンタロウのめちゃくちゃなところしか見ていないナギリには、それがなんだか新鮮に感じられた。
 ここからでは子供が何を言っているのか聞こえないが、それでもカンタロウの「それでは本官にお任せであります!」と元気いっぱいの声だけは聞こえる。その言葉の通り、カンタロウは軽く屈伸をしたのち果敢に木の下で飛び跳ね始めた。合間合間に子供に声を掛けているようで、「本官もそろそろお誕生日なのであります」「チョコケーキでありましたか!」「プレゼントは何をお願いしたのでありますか?」といった雑談がナギリの耳にも届く。

 誕生日のプレゼント。
 カンタロウもプレゼントをもらうのだろうか?
 ナギリは順番に吸対の職員たちを、そこら辺を管轄にしている警察官を、顔も知らない彼の両親を思い浮かべた。彼らはきっとカンタロウの誕生日を祝うだろう。プレゼントだって渡すはずだ。ナギリには何もない。彼が何を欲しがっているのかすら知らない。ただ、懐の中に昔うっかり手に取って買ってしまった厚紙のカードだけがあって、これをどうしてやればいいのかもわからない。
 それとも、自分を逮捕させてやればカンタロウは喜ぶだろうか。ふと思い浮かべたそれにナギリの脳は釘付けになった。まったく本末顛倒な考えだけれども、ナギリにはそれくらいしか。

 ……声が聞こえなくなったのに気付いて視線を戻すと、カンタロウは親子連れに例のお手製のチラシを渡しているようで、もういつもの、ナギリが一番よく目にする顔つきをしていた。ここではないどこかを、あるいはもう取り返しのつかない過去を見つめているような据わった目つきだ。ナギリはその目が恐ろしいと思う。自らが壊したせいでそうなってしまったものに怯えるというのもおかしな話だが、あの目で見つめられるとなんだか責められているような気がする。ずっと見ていると気が触れてしまいそうになる。
 そうだ、そこまでして自分が祝ってやる義理もないのだ。
 なんだか馬鹿らしくなってきて、それにカンタロウが今にもこちらに目をやりそうで、ナギリは速やかに路地裏へ引っ込んだ。ここは暗い。誰も自分を見ていない。そう思うとほっとするのに、同時にひどく腹立たしくも思う。


 ナギリは目抜き通りに背を向けて歩き出す。それでもずっと、街のひかりが、ナギリが決して手に入れられないであろうものが身体のどこかをじりじりと灼いているようだった。



そのひかりをまだ知らない/炭化カリウム




一覧に戻る