「寒くないですか?」
先に外に出た男が聞いた。目深に被ったフード越しに見れば息が白くなっている。人間の高い体温は冷たい空気の中でそうなるらしい。
「……ない」
あの頃に比べれば、と言おうかと思った。だがその顔が曇るのが何となく嫌でやめておいた。とはいえ、あの頃の記憶もすでにふわふわとしている気がする。
カンタロウと暮らすようになって半年が過ぎていた。雨が降り続く蒸し暑いあの忌々しい季節に、間抜けにも自分は捕まったのだ。
辻斬りナギリ逮捕のニュースはそこら中に流れ、VRCに収容されてこれからあちこちいじり回されるのかと絶望していた。
がしかし、収容されたのはわずか三日。
身元引き受けなんとかとして迎えに来たのは、丸とその主とあの赤い吸血鬼退治人。自分なんかを心配してくれたのか、丸は主の手からこちらへと飛び移った。それをあわてて受け止めたとき、もう一人いるとに気が付いた。
それがカンタロウだった。
辻田さん辻田さんと自分が適当に付けた名を呼び、辻斬りナギリ捜査に燃えつつ〝辻田さん〟に子犬のようにじゃれつき、台風のように面倒事に巻き込んでは翻弄した男だ。
こいつが自分で杭を打ちたいとでも言ったからVRCから出されるのか。
ナギリはそう諦念の中で覚悟を決めた。いじり回されるよりも、振り回され続けながらも、自らの手で死ぬ寸前までの傷を負わせた男の手で終わる方がましだとさえ思えた。
手の中に収まる丸に別れを告げるためにそっと撫で、その主に渡した。主の吸血鬼は柔く笑っている。高貴な生まれの吸血鬼にとって、自分のような存在は随分つまらないものに見えるのかもしれなかった。
意を決してカンタロウと向き合ったとき。
――あなたを拘束して、監視する任務を受けたであります。
いつものでかくて五月蠅い声ではなく、静かで落ち着いた声でカンタロウはそう言い、片手を差し出したのだ。
――は?
動揺する自分に、丸の主が意地悪く笑いながら言った。
――手をつないだら逃げられないじゃないか。『拘束』だよ。
カンタロウがそれに驚いた顔をして振り返った。おそらくそんなつもりでもなかったのだと思う。けれどすぐにこちらに向きなおり、いつものように手首をつかむのではなく、この手を握ったのだ。
血の刃が出る手のひらであると知りながら、躊躇うことなくつながれた手は、しっとりと汗がにじんでいて、自分より冷たく感じた。
以来、カンタロウが住む官舎にいる。単身用だからそんなに広くはない。けれどそこは夏の暑さに苦しむことも迫り来る冬に怯えることも、空腹で過ごすこともない場所だった。
玄関の横では杭打機がほこりをかぶっている。丸が主を伴い時折訪ねてくるし、神在月が泣きついてくればアシスタントの仕事をした。とはいえ一人で買い物に行くのにはまだ慣れてはいなかった。買い物にでるときは大抵一緒にでるか、カンタロウが仕事帰りにすませてくる。
今日もカンタロウが言い出したのだ。
「寒い中連れ出して申し訳ないであります! お正月の買い出しをしておきたくて!あっ、よかったら本官……俺の、マフラーを!」
急に大きい声を上げるから思わず足が止まってしまった。動揺する自分の首に、カンタロウはぐるぐるとマフラーを巻き付けた。人間の匂いと体温が残るそれにナギリは思わず眉を寄せたが、満足そうなカンタロウを前に何も言い返せなかった。
ナギリは視線をそらせながら深くため息を付く。
この男のペースに慣れない。
「さ! いきましょう!」
ついと出された片手は、外を歩くときの決まりのようになっていた。こんなもの自分には簡単にふりほどけるし、その重ねた手のひらを血の刃で貫くことだってできる。だからその手を取ってやった。
いつでもできる。
それが今ではないだけで。
自分よりも小さな体つきの癖に、カンタロウはいつものように大股で自分を引っ張って歩きだした。
それはまるで犬の散歩だ。
行きたいところに向かって引っ張りながらも、時折ちらりと主人を見てその存在を確認し、また引っ張っていく。
ナギリは小さく吐息しながら、その手が離れてどこかに行かないように、かすかに力を込めた。
繁華街に出てみたら随分と景色が変わっていて驚いた。
年が変わったところで何が変わるのかと思う自分とは裏腹に、連れ出された町並みは妙に浮ついて見える。先週まではそこら中を埋め尽くしていたクリスマスとやらの気配は消え、代わりにどこも大きな声でセールの呼び込みをしている。
英語で歌うクリスマスの歌も日本っぽいあたりの曲にすり替わっていた。が、折流れる子供の歌うような歌には覚えがあった。
もう幾つ寝ると、とその日を楽しみに数える歌だ。
正月といわれても正直ピンとこない。人だった頃、どんな風に過ごしていたのかも思い出せない位なのだし。
けれど正月の前日のことは、この半月ずっと考えている。
この生活がはじまってすぐ、丸の誕生会に呼ばれた。
丸の場合は正確にはわからないそうだが、それは些細なことだった。
命を祝う日。
そんな物を意識してこなかった。けれど確かに生まれた日がなければ、その命はそこにいないのだという至極当然のことに気づかされた。
誕生会に何を持って行くべきかとカンタロウに聞いたら、相手が喜びそうなものにカードを添えるといいと言われた。
たとえばガンダマンのキーホルダーがいいと思うとまくし立てられたが、ひんやりとした感触のクッションにした。
これから暑くなるから、どうか少しでも涼しく過ごせるように。
そう思って選んだ。
誰かのためになにかを選ぶのは、記憶に残る限り初めてだった。それが楽しいと知ったのも初めてだった。
そしてその後、あの冷たいクッションを使ってくれているだろうかと思う度、丸が生まれた日を思った。
その命の存在を思った。
それはくすぐったいような、暖かいような、妙な心地だった。
「ナギリさんは、お餅は甘い派でありますか? 醤油と海苔も買いますが、せっかくなのでお餅でうんざりしたいと思いまして!」
また面倒事を起す気配をさせて餅を選ぶカンタロウが聞いた。
はたと買い物に来ていたのだと思い出した。
自分にとっては急な問いに答えを言い淀むと、カンタロウがなにかに気づいたように真剣な顔をする。
「ナギリさん、あんこは粒派ですか? こし派ですか?」
考え事をしていると咎められると思ったのに。
相変わらず解らない男だ。
「はっ! ひょっとしてきなこ きなこですか それも好きでありまぁああす!」
訳の分からないことに真剣になるときの目は、まだ自分を辻田と呼んでいたときを思い出させる。
こちらを見ているようで見ていない目。
久しく忘れていたその眼差しと、ついでに周囲からの視線の痛さに耐えかねて、ナギリは繋いでいた手をほどいた。
「うるさい。どれでもいい」
繋いでいた手をカンタロウに見せるようにしてその興奮を宥めつつ、ナギリは踵を返す。
「ナギリさん! どちらへ 」
「あぁいいからそこで選んでいろ。買う物があるだけだ。すぐに戻る」
一瞬の逡巡を見せたあと、カンタロウは餅とあんこの吟味に戻る。
ナギリはフードの端を摘んで少し引いて、その陰で小さくため息を付く。
拘束と監視はどうした。
逃げることだってできるんだぞ。
仕事なのだろう、真面目にやれ。
胸の内で悪態をつき向かった先は、小麦粉や砂糖が並んでいる棚だ。
餅に絡めるものを悩むカンタロウとは違い、その棚の前でナギリは迷わなかった。
特別な日にはこれを買っておけば間違いない。
そう言われていた、他よりも少し値段の高い、青い箱を取る。
夏の終わりに神在月に頼まれて文具店に行ったときだ。あいつはこともあろうに修正用の白を切らしていた。今時そんなものを常に置いている店があるのかと怒鳴ったら、あそこなら在るはずだと言われた閉店間際の小さな古い文具店に滑り込んだ。小さい店の中には天井近くまでびっしりと商品が並べられている。
確かにそこには目的の物は売っていた。会計を待っていたときにレジ横の棚に、カードがたくさん並んでいた。その中で一際目を引く……、というか、さんざん熱くかたられているから嫌でも目に付いたそのカードを買った。
そのときは誕生日がいつなのかも知らなかったのに。
我ながら滑稽すぎてため息が出る。
誕生日が一年の最後の日だと知ったのはつい最近だった。
夕方出勤の準備をしているカンタロウに聞いたからだ。
ただ、毎年大晦日は仕事だから気にしなくてもいいと言われた。誕生日会もしたことがないそうだ。やったところで誰かに来てもらうのも忍びないと笑った。騒ぎを起こすタイプの男であって、人を集めて騒ぐタイプの男ではないからそれでいいのかもしれなかったが。
――大晦日は家族と過ごすものなので。本官の誕生日よりそちらを……
言いかけた言葉を飲み込んだカンタロウは見開いた瞳でこちらを一瞥し、そのまま大きな声で「行ってまいります」と敬礼をしたと思えば、突風のような勢いで飛び出して行った。すでに見慣れた光景だったため、ナギリは気にもせずカンタロウが閉め忘れた家の鍵をいつもの通り内側からかけたのだった。
その日の仕事から帰ってくるなり、大晦日には休みを取ったと言い出した。
――年末年始の有給申請なんて、初めてでありますよ。
あれは十二月も半ばの日曜日、突然そう決めたのだと真剣な眼差しで言った。
そこから、何度も丸のところで練習をした。炭にした時もあったが、それは丸の主が『新種のスイーツでこの苦みこそがおいしさの秘訣だ』などと吹き込み、退治人に食べさせて片づけた。
それらも含め苦労を重ね、やっと丸から合格が出たのが一昨日である。もう濡れた布巾で一度冷やすことも、弱火でじっくりと焼くことも、ひっくり返すタイミングもわかっている。
バターはあるし、この青い箱の中には専用のシロップも入っている。でもカンタロウは和菓子の方が好きそうだから、今選んでいる餅用のあんこを乗せてもいいかもしれない。
命の存在を思う日。
それがもうすぐそこに迫っていると思うと、妙にざわついた気持ちになる。新年よりもずっと、そこを待ち遠しく思っていた。
それがもうすぐ来る。
浮き立つような気持ちを掻き消すように。
「ナギリさ――ん! どこでありますか――――!」
泣き出しそうな大声が聞こえて頭を抱えた。
あぁもうとため息をつきながら、その声に向かって歩くことにする。
ナギリは自分が、それでもほんのりと笑っていることに気付いていた。
もういくつ寝ると?
あと二回。