夜明けまであと三十分というところだろうか。カンタロウはパジャマ姿のまま、ソワソワと玄関に目を向けた。
ナギリは昨夜から、オータムの忘年会に参加していた。年末進行の山を命からがら越えたところにアルコールを摂取して屍と化した神在月先生を介抱しながら始発を待つから先に寝ていろ、と電話があったのは真夜中過ぎ。フクマさんの亜空間移動で神在月先生の家まで送ってもらったから、少し様子を見て大丈夫そうなら帰るとRINEが入っていたのは一時間ほど前。神在月先生の寝かし付けに手こずったとしても、もうそろそろ帰って来るはず。
案の定、耳慣れた足音が聞こえてきたのでドアの正面に陣取り、鍵を開ける音に合わせて両手を広げウェルカムの構えを取る。
「起きていたのか」
愛しの同居人はカンタロウの胸に飛び込んで来てはくれなかったが、まんまるに見開いた目が可愛くて顔がニヤけてしまった。
ナギリを抱っこするのは諦めてコートとマフラーを受け取り、ハンガーに掛ける。
「お帰りなさい! お疲れ様です!」
「……ただいま。今日は当直だろう。寝てなくていいのか?」
吸対のシフトは県警の交番勤務と違い、警視庁に近い形を取り入れている。当直の拘束時間は午後三時〜翌日の午前十時。合間に取ることになっている四時間の仮眠は何やかんやで潰れてしまうのが常なので、吸対のメンバーは皆、出勤前にしっかり睡眠を取るようにしていた。
「ちょっと目が覚めて、ナギリさんのお顔が見たくてお待ちしてました」
疲れ切って帰宅するであろうナギリに温かいお茶を淹れて、今年も何かしらの伝説が生まれたに違いないオータム忘年会の話を聞いて、おやすみなさいと言い合って。ただ眠り続けるよりその方がずっと心身共に安らぐと、カンタロウは知っている。
「ん……」
お茶どうぞ、とカップを差し出したカンタロウへ眠そうな顔で生返事をすると、ナギリはふらふらと冷蔵庫へ向かった。お茶よりも血液パックの方がよかっただろうか、とカンタロウが眺めていると、いつも作り置きなどを入れているタッパーを取り出している。まさか自分のために弁当を作ろうとしてくれているのだろうか。そう思い至ったカンタロウは、慌ててナギリに声を掛けた。
「ナギリさん、今日はお弁当大丈夫です! すみません、お伝えするの忘れてて」
「それは構わんが……非番になったのか?」
手を止めたナギリが、訝しげにカンタロウを見る。二人の予定を書き込んでいるカレンダーに、訂正した様子は無い。
「いえ、今日は事務方の御用納なんで、納会と言いますか、署の会議室で立食パーティーのようなものをやるんです。ケータリングとペットボトルですが」
今日で本当に仕事を納められる職員はほんの一部だが、シフト勤務の部署も休憩時などに顔が出せるよう、納会は昼過ぎから定時まで続く。お茶で乾杯し、軽食をつまみ、一年の労をねぎらい合って、明日出勤する者もしない者も、とりあえず「良いお年を」と挨拶を交わす。食いはぐれる者が出ないようにと、食べ物も飲み物も多めに手配されている。
「お昼はそこで済ませて、残った料理は当直組の夜食になるのが伝統であります! 万が一足りなかった時には上の方達から追加の差し入れも」
「そうか、じゃあこれはいらないな」
ナギリはそう言うと、少しつまらなそうな顔をしてタッパーを冷蔵庫に戻した。
「俺はもう寝る」
「お茶は」
「後で飲む……悪いな」
カンタロウの顔も見ずに寝室へ向かったナギリは、ジャケットだけ脱いでベッドに潜り込むと、頭まで布団を被ってしまった。
気になる。カンタロウが淹れたお茶に口も付けず、着替えもせずにベッドに入るというのは、VRCで「まともな生活」について学び、持ち前の聡明さと優しさを活かしてその実践のために日々努力しているナギリらしからぬ行動だった。
よっぽど疲れて眠いのか。忘年会で何かあったのか。もしや体調でも悪いのか?
そう思い至ったらもう駄目だ。カンタロウは寝室へ突進すると、ナギリをすっぽり包む羽毛布団にガバリとしがみ付いた。
「ナギリさん、ナギリさん、お顔を見せてください!」
「何だ急に」
「お腹が痛いでありますか? 忘年会で怖いことでも?」
「違う! いいから寝かせろ」
「じゃあ、お弁当のことでありますか?」
ぴくり。布団の中でナギリの肩が揺れた。基本的に、嘘が吐けない人なのだ。あんなに長い間その正体を隠し通していたのが、いまだに信じられない。
「さっきのタッパー、お弁当に持って行きますね」
「馬鹿やめろ! あれはまだ途中……」
「うぼわッ!」
叫んだナギリが、カンタロウごと布団を跳ね飛ばした。床に転がったカンタロウと目が合って再び布団を被ろうとするのを阻み、背中にしがみつく。
「途中って何でありますか?」
「……」
ナギリの背中に顔をくっつけて聞いてみるが、返事をしてくれない。
「ナギリさん」
「……っ!」
尖った耳に触れるか触れないかの位置で再度問いかけたら、やっと反応してくれた。
「わかった! 言うから離れろ!」
カンタロウが渋々ナギリを解放すると、身体を起こしたナギリがポンポンとベッドの縁を叩いたので、並んで腰掛ける。
「あれは、ケーキなんだ」
「ケーキでありますか?」
カンタロウは甘い物も嫌いではないし、ナギリの作る物は何でも大好きだ。だが弁当のラインナップにケーキが来たことはなかったので、少し戸惑った。
「もうすぐお前の誕生日だろう。プレゼントもカードも用意したが、お前は休みも不定期だし、急な出動要請も入るから、当日に誕生日を祝えないかもしれん」
「そうでありますね」
交番勤務だった頃は勿論、武者修行中も吸対に入ってからも、自分の誕生日にゆっくりできたことなどまず無かった。
「何日か前からカウントダウンすれば一回くらいはちゃんと祝えると思って、当日までのメニューを考えた。今日は当直だから、夜食用のパウンドケーキを誕生日っぽくデコレーションしようと思っていたんだ」
「ナギリさん、そんなお気遣いを……! 本官、嬉しいであります!」
カンタロウは感激に打ち震えながら、いつかの年末を思い出していた。あの時ナギリが作ってくれたアドベントカレンダーは、ナギリに内緒で今も大事に保管している。
「そうと聞いたらあのケーキ、是非とも今日欲しいであります!」
「飾り付けしてないから、ただのパウンドケーキだぞ」
「でもナギリさんの手作りです!」
「ご馳走が沢山あるんだろう? そっちを食え」
「ナギリさんのケーキが一番のご馳走です!」
カンタロウがあまりに食い付くので逆に照れてきたのか、ナギリは枕で顔を隠すと俯いてしまった。
「……職場にケーキ持たせようなんてどうかしてた。忘れてもう寝ろ」
「えええそんな! ナギリさんのケーキ!」
枕ごとナギリの頭に抱き付いて、イヤイヤと左右に揺れる。完全に駄々っ子だが許して欲しい。負けられない戦いがここにある。
「ぐ、明日、家で食わせてやるから」
ナギリは降参の意を込めてベッドの端をタップする。吸血鬼でも酸素は吸いたい。
「絶対ですよ! デコレーションもして下さいね!」
栄光を勝ち取ってナギリの頭部と枕を解放したカンタロウは、今度はその肩を掴んで一緒にベッドに倒れ込んだ。
「おい」
「本官も仮眠します。体調を万全にしませんと! 何せ明日から誕生日まで連日パーティでありますから!」
カンタロウは愛しさを抑えきれず、ぎゅっとナギリを抱きしめた。息苦しい放せと暴れていたナギリは、昨夜からの疲れとカンタロウの体温で眠気を誘われたのか、次第にウトウトし始める。
「明日のメインは唐揚げだから、揚げるの手伝えよ……」
何とも魅惑的な命令を残して、ナギリは夢の世界へ旅立った。その穏やかな寝顔を見つめて、カンタロウは幸せを噛み締める。
自分の誕生日について、ナギリさんがこんなに色々考えてくれていたなんて。明日からのメニューは勿論、既に用意してあるというプレゼントもカードも、きっと悩みに悩んで選んでくれたのだろう。それが何よりも嬉しい。
お茶のカップを片付けて、ナギリさんを着替えさせて……などとさっきまでは思っていたが、全部後回しだ。このぬくもりを、一分一秒でも長く味わいたい。今日はギリギリまで寝ていようと決めて、カンタロウはそっと目を閉じた。