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「申し訳ないのですが」
 カンタロウがやけに神妙な顔つきで、夕飯を食べ終わると口にした。一瞬身構えるが、なんてことない話で、引越しの際どこかに消えてしまった吸対の手袋を探して欲しい、とのことだった。
 一緒に暮らし始めて知ったことだが、カンタロウは制服を持って帰ることはあるが、着たまま出帰することはほぼない。基本的に署で着替えるため、私服で出掛け、私服で帰ってきた。もし制服で出入りすれば「ここに吸対職員がいる」と一目瞭然となるからだろう。カンタロウは引っ越しのとき己の職業を近隣住民には話さなかったし、ナギリも自分は吸血鬼で元犯罪者です、などとは口にしなかったので、そういうものだと思っている。自分たちの素性を知っているのは、ここの大家とやり取りがある隣人くらいだった。
 吸対の制服一式は貸与品で、私物ではない。署専属のクリーニング屋は居るそうだが、あまり安くない上に自費なので、カンタロウは自分で洗える範囲のものはいつも持ち帰って自宅で洗っていた。制服は白が基調なために、クリーニングに掛ける回数が多い所為もある。特に汗掻きのカンタロウは襟を真っ黒にしたワイシャツを年中持ち帰って来ていた。当初ナギリは洗濯機に放り込むだけにしていたが、それだけでは落ちないと悟ったので、最近は洗う前に食器用洗剤を溶いたぬるま湯に浸けてから洗っている。人間と暮らす吸血鬼仲間から聞いた知恵でもある。吸血鬼は代謝が遅いので、同じものをずっと着ていても、ここまでひどい汚れはつかない。汚れていたものが奇麗になるのは気分がよかったし、何より真っ白になるとカンタロウが目を輝かせて褒めるので、悪い気はしなかった。
 記憶にある吸対の手袋は革製で、甲の一部にエンブレムのプレスが入っていたはずだ。季節外れの吸血蛾を掴んだため、鱗粉による焦げのような痕がこびりつき、洗い落そうとカンタロウが持ち帰ってきたのを憶えている。革製品なんて扱ったことがないとナギリが伝えると、カンタロウは本官がやりますので、と云っていた。要は、そのまま忙しさで忘れたのだろう。ナギリもカンタロウの言葉を鵜呑みにして、吸血鬼仲間に革製品の洗浄方法は聞かなかった。かれのパートナーは常に革手袋を装着しているので、きっと嬉々と教えてくれただろう、と今では思う。忘却のまま引越しとなり、おそらく昨冬は手袋をせずにやり過ごしたのだ。元より暑がりで吸対の制服も、気を抜けばすぐに襟元を緩める癖があるくらいだ。去年の冬は暖冬だったのと、雪や氷を扱う吸血鬼が出なかったのもあって、手袋がなくてもやっていけたのだろう。わざわざ云い出すからには、おそらく近日中に必要になる予定があるのだ。
「おまえの部屋を探ることになるが、いいのか?」
 座ったまま熱い茶をすすると、カンタロウは表情を変えぬまま食べ終えた食器を流し台に運ぶ。そのままかるくすすいでから、食洗器へ並べた。中にはすでに調理に使った器具が入っているので、その隙間にカンタロウは食器をねじ込み、洗浄開始ボタンを押す。
「何も隠し事はありませんから、どうぞ」
 振り返りながら手を拭き、ナギリの用意した弁当をデイバッグに詰めると、よろしくお願いします、と一礼して仕事へ出て行った。
 残されたナギリは食洗器の回る音を聞きながら、残りの茶をすすった。
 あの口ぶりだ、きっと一通りは探したはずだ。それでも見つからなくて頼んだのだろう。ああ見えて存外几帳面な男だった。
 ナギリは一緒に暮らし始めて、知っているようで知らないカンタロウの一面をたくさん知った。むしろ知っていたのは一部分だけだった。知る前は嫌いな部分も山ほどあったが、知ることでなぜそれが嫌なのか、を知った。おかげで今ではそれも好ましい部類に入っている。カンタロウもナギリが嫌がれば、なぜ嫌なのかを解きほぐしていくので、かれに倣ったと云ってもいい。
 空になったマグを流し台に置き、鍋の残りをタッパーに入れた。豚肉と大根をほんだしとみりんで炊いたものはカンタロウの好物の一つだった。弁当にも入れてやったので、夜食に食べるだろう。夕飯とほぼ同じものなのに、飽きもせず弁当を食べ終わると、いつも感謝と世辞をラインで送ってきた。空になった鍋をそのまま洗い、籠に載せる。食洗器があるのは便利だが、洗剤が強すぎる所為かテフロン加工のあるものを一度ダメにしてしまい、入れてはならぬものがあるのだと学んだ。
 寒くなってきたので、大鍋で作る煮込み料理が多くなってくる。そうすると、暖房を入れなくとも部屋があたたかいのだ。寒さは苦手ではないが、あたたかさを知ってしまった今では、もう寒い場所には戻れなかった。与えられるまでどうでも良かったことだったが、それは知らなかっただけだ。熱い液体はからだをあたためる。血でそれは知っていても、寸胴鍋いっぱいの雑煮を食うまで知らなかった。知らなかったものは次から次へとカンタロウから与えられた。カンタロウに出会うまで、季節の移ろいなんて気にしていなかったし、自分には関係ないものと位置づけていた。四季折々にかれから渡される甘い菓子や風景。知ったつもりで何も知らなかった世界。
 今のこの生活も、かれが与えたものだ。自分からカンタロウに与えるものなど何もないのに、といつも思う。実際何度か口にしているが、カンタロウはその都度、本官も辻田さんからたくさん頂いています、と返してきた。
 そう返されるたびに心が締め付けられ、何をだ、と大声でなじりそうになるのをいつも堪えた。
 ナギリはエプロンを外すとカンタロウの部屋に入った。引き出しをひっくり返した結果なのか、靴下が一足だけ床に落ちていた。それを拾い上げて、今では荷物置き場になっているベッドの上に放ったが、片方ないとあとで騒がれるのも嫌で、もう一度拾い上げると、定位置の引き出しにしまってやった。ベッドマットの上に置かれた箱も、すべて一度開けた形跡がある。ナギリも一通り同じ場所を探ったが、ひょっこり手袋が出てくることはなかった。
 ではどこにあるのか。
 もしかして、自分の荷物に紛れているでは――。
 思い至ると、カンタロウがわざわざ頼んだ理由も判った。自分の部屋はあらかた探索済で、ならば、と思ったが勝手にナギリの私物を開けるのは気が引けたのだろう。無遠慮で他人との境界線が曖昧なくせに、妙なところで几帳面だった。ナギリの執行猶予が決まると、一度ふたりの関係が途絶えた。カンタロウは保護観察官の役目を挙手したそうだが、加害者と被害者がともに居るべきではない、との裁判所の判断で却下されたのだ。明確に描かれた線を、カンタロウは忠実に守った。けれど、猶予が終わると、かれは四方八方に猛スピードで走り回り、法的手続きをすべてクリアさせると、ナギリを自分の部屋に呼び同居を申し出、一緒に住んで数週間も経たぬうちにこのマンションを契約してきてたのだ。猪突猛進のかれは、ナギリが断るなんて微塵も考えていなかった。無論、ナギリも断るつもりはなかったのだが。
 ここに引越して、プライバシーを尊重し、互いの部屋の中は触らないことを決めたのだ。けれど、今となっては、一緒のベッドに寝てしまっているあたりで、境界線はもうあってないようなものになりつつあった。
 ナギリは自分の部屋に戻り、ずいぶんと増えた私物を眺めた。以前は電球くらいしかなかった部屋が、一緒に出掛けるたびにあれやこれやと増えていき、今ではカンタロウの部屋と同じくらいものがある。かれの部屋と違うのは、ナギリの部屋には窓がないために、色鮮やかなカーテンが壁にないことくらいだった。
 それでも、前の部屋から持ってきたものは少ない。ナギリはベッド下奥に押し込んだ箱を、這いずって引き出した。逮捕されたとき、カンタロウの同僚であるサギョウが、嫌そうな顔であの廃墟ビルにあったものを詰めてきてくれたのだ。中にはナギリのものではないエロ本まで入っていて、かれが顔を顰めたのも無理はなかった。ここへの引越しはカンタロウの夜勤明けと神在月のアシスタント明けが重なり、ふたりとも徹夜で挑んだ。もうろうとした頭で何でもかんでも隙間に詰めた。おかげで引越し後、衣服の間から醤油ボトルが出てきたり、調理器具の中に筆記用具があったりと、散々な結果になったのだ。あの廃墟ビルから持ち出した箱には隙間があって、そこにも何か詰めたのは憶えている。それが手袋だったかどうかは判らないが。
 箱を開くと、少しだけ埃が散ってナギリは小さなくしゃみをした。
 中からは手袋は手袋でも毛糸のものが出てきて、思わず口角が上がってしまう。何度か嵌めた芥子色の手袋。いつぞやのクリスマス、裏路地に置かれていたプレゼントの箱に入っていたものだ。サイズもあってない、色も好みではないそれは、丸がくれたのだ信じて大事にしていたものだ。毛糸の手袋をどかすと、ごろりとビー玉が転がり、その下には見知ったエロ本が出てきた。いくらカンタロウがミニスカポリスが好きだと知っていても、さすがにこれを取っておく意味はないだろう。古びた雑誌をぱらぱらとめくると細かい埃が舞い、ページの間から包装された小さな袋が出てきた。
「――?」
 覚えのないものだった。ナギリは思わず手に取り、そっと封を開く。中身を引き出すと、そこには知ったヒーローが居る。
 あの日買ったカードだ。
 神在月に嫌々付き合って行った、ヒーローなんちゃらのイベント会場。そこで手にした、誕生日カード。思わず壁に掛けられたカレンダーを見た。今日は十二月十八日。あと、十三日ある。
 捨てたと思っていた。あの廃墟でぽいと床に放ったはずだ。視界から消えたそれはおそらくサギョウの手によって回収され、ここに挟まれたのだ。今になって出てくるとは思わなかった。
 ナギリはカードを眺め、引き出しの奥に仕舞う。雑誌はそのまま古紙回収の袋に突っ込んで、箱も潰して紐で括った。毛糸の手袋は自分の衣装タンスに仕舞い、ビー玉は玄関の飾り棚に置かれたままの空の花瓶の中に突っ込んだ。
 まるで証拠を隠滅しているようだった。
 キッチンに戻ると、壁に貼った共用のカレンダーを見る。カンタロウの休みに〇がついているが、暮れも正月も休みはない。
 テーブルに置いたままのスマートフォンが鳴り、夜食を食べたことを知る。そこには「大変美味しかったです! あと署内にありました!」と、空の弁当箱と手袋の写真が添えられていた。
 ナギリは「よかったな」と簡素な返事を打った。するとすぐに泣き笑いした顔のスタンプが送られてきた。
 ひとを祝う。
 生まれた日を祝う。
 プレゼントを贈る。
 何度経験しても、近くになるまで忘れている自分が居る。ナギリは自分の誕生日も知らないので、カンタロウはいつも悲しがっていた。今では「辻斬りナギリ」が捕まった日をその日の代わりにしている。その日もナギリは忘れていることが多いので、帰宅してサプライズされることが多かった。カンタロウはいつも全力で祝ってくれる。きっと本当の誕生日を知ったら、もっと祝うだろう。
 では、そんなカンタロウの誕生日の十三日後どうするべきか?
 まったくのノープランにナギリは天を仰いだ。
 判るのは、その日は与える側になれるということだけだった。



手袋の先に/暁




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